2012年5月4日金曜日

囲碁と将棋の歴史の違い

囲碁と将棋の歴史の違い

教えて。囲碁は戦国時代、武将がたしなんでたというのは本当ですか?それは趣味でですか。

将棋、と囲碁は昔、どういう位置づけだったんでしょうか。



また囲碁で2眼をつくれば石は取られないと知りました。最低石はいくつ必要ですか。

ハンゲーム9路盤です。







囲碁、将棋という観点から見るのではなく、戦国時代という観点から見ると

碁、将棋が打たれた、指されたというのは本当です。

武将が嗜んでいたかという点について言うならばそれも本当でしょう。

各大名家における訓戒や教訓を見てみるとわかりますが、

武士は武芸が本道であり、芸道である詩歌、棋道(碁、将棋)、茶道、数寄物に執心してはならない

という一文をよく見受けます

このことからも、趣味として嗜んでいたということがわかります。

さて、位置づけということですが、どちらも大した違いはないと思います。

歴史の長さという違いはあっても、位置づけが出てくるのはおそらく江戸時代以降ではないかと。

前述ではありますが、信長や秀吉が打てたかどうかはわかりませんが、

相伴衆として、本因坊算砂が召しだされたことがあるというのは事実ですから 恐らく打てたのではないかと思われます

全く打てない人間が碁を観るためにわざわざ召しだすとは思えませんから。








戦国時代の武将にとって、囲碁の戦略が実戦に応用できるとしてたしなんだ、、、、なんていうのは、ひいきの引き倒しみたいなもので、そんなことを考えていた武将がいることを裏付けるような資料はありません。



碁を打っていた人はいるけれど、あくまでも盤上遊戯ですし、囲碁と武将が関係する逸話などは、ほとんど(いや、すべてと言ってよいかもしれませんが)は、坐陰談叢や爛柯堂棋話など、囲碁の関係者が書いた囲碁の歴史上の話の中だけにしかでてきません。

ですから、囲碁と関係のない客観的な史実からは、武将が囲碁をたしなんでいたというような表現は、ほとんど根拠がないようなものです。



有名なところでは、信長の本能寺の変の前夜の日海-利玄の3コウの碁など、碁界の話以外では、当日本能寺で碁が打たれたことなど、一切歴史上の事実がありません。

日海=本因坊算砂は、信長秀吉家康にそれぞれ仕えた、3人とも日海に5子だった、などと、碁界では眉唾な話がまかり通っていますが、信長秀吉はそもそも本当に碁が打てたのか、まったくわかりません。

家康は、ごく少ない資料で対局の様子が日記に残されていたり、碁に関する逸話があるので、多少は打ったでしょうが、武将のたしなみとして奨励したわけではなく、「日本の文化の一つとして、良きものであるから、幕府が保護するものの一つだ」として、守らせるようにしたもの、というところのようです。



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2眼は、最低数では、スミで6個の石があれば、完全なものを作れます







将棋はインドで原型ができてタイから日本に伝わったと考えられて居ます。現在の日本将棋が遊ばれは始めたのは400年前頃

http://www.jvnet.or.jp/~badz9005/tendo/rekisi.htm



コミを使った現代語の歴史は70年ぐらい

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%B2%E7%A2%81%E3%81%AE%E6%AD%B4%E...







隅なら五個有れば行けるかなあ。

歴史については他の人に任せます。

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